みたままつり

昨日、彦根への納品の時得意先の近くにある彦根、護国神社で行われている「みたままつり」に立ち寄りました。この神社、私は幼い時遊んでいた場所でもありよく祖父や祖母と立ち寄っていた神社でもあります

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得意先への納品後の様子。

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彦根駅から西に向かってまっすぐ進んだ突き当りにこの神社があります

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英霊に感謝の誠をささげようという気持ちをもって接する場で、結果は敗戦だったとはいえ先の大戦でこの方々がいなかったらもっと悲惨な敗戦になっていたと思います

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ちょっとした飲み物や食べ物も売っておられたりしました。

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神社の横にある「市民会館」、この建物が出来た時はその大きさに幼い私は妙な誇りを感じていました。

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よく見る馬の・・・。馬の前には犬、今後神社への寄進するときふと思ったのですが「この手」もありだなと思いました

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こちらのは傷ついた兵士、さまよう母子の像です。戦争の悲惨さはよくTVで放映されていますし戦争そのものは起こしてはいけない人間が選択する最悪の行為と思います。これから書くことは長文ですし私の私観なのでブログごらんの方で「お前の意見など」と思われる方はここでおしまいにしていただいて結構です

先の大戦、結果はとても悲惨でしたし起さない誓いは大切です。しかしその報道に対し「何故に日本がそうせざろう得なかったのか」の検証が少ないようにも思います。軍部の暴走もあったのは事実ですが経済封鎖され、また当時の米国大統領ルーズベルトがそうさせようと画策していた事実は伝えられていないのも事実と思います

ロンドン軍縮会議の時全権だった山本五十六さんが米、英、日との軍艦比率を10:10:7の割合での交渉に同意した時日本国内で「弱腰」と言われたが、山本氏は「日本が7に抑えられたのではない、米英を10で縛ったのだ、米国などそうもしなかったら10が100にも1000にもなるぞ」と力説したことがあったと聞いています。山本氏は武官として米国にも赴いていたのでその産業力の恐ろしさを数字で熟知していたからだと聞いています。事実戦時中我が国は空母製造に国を挙げて作っても数カ月に一隻だったのに対し米国など1週間に1隻の割合で製造していたんですから。当時の政府がとにかく自国の産業力を誇大評価し過ぎたのも大きな間違いだったと思います

軍部、終戦近くなると「能無し」が台頭し、牟田口中将などのようなのがインパール作戦で60000人の犠牲を払い敗戦した日本軍歴史上最も愚かな軍人がいたことも我が国にとっての悲劇でした。この男、敗戦色が濃くなるとさっさと日本に帰国し戦後は知らぬ顔して自分は偉いさんだったと吹いてまわり、74歳で亡くなるまで彼の無謀な立案で犠牲になった兵士へ手も合わせることも謝罪もなかったと聞いています。こんな無責任のかたまりがいた軍部なのですから いかに戦争が狂っていたかもわかります

大戦までの各国との、主に米国との交渉ではそのテーブルに着くまでに結果は決まっていてどのテーブルにつくかがポイントだったのにもかかわらず「正面突破」しか考えていなかった当時の日本政府の愚かさもこの悲劇の「もと」だったと考えています。「話せばわかる」とか「以心伝心」のような日本的考えが米国に通用するはずもなく、米国は日本をくまなく調べていたのに日本はそれをしなかったのも悲劇でした

また戦後他国、特に隣国から非難を受けた日本ですがいろんな問題の「事柄」も自国がその後(ベトナム戦争:ライダイハンを検索されるとお分かりと思う)した蛮行は棚に上げて70年以上前の事を非難しているのも各国の「お国事情」なのにそれに乗っかり自虐ネタを繰り返すのはいかがかと思います。加えてこれこそ私の私観中の私観ですがその国の出身や2世の友人が複数いますがその大半が「嘘」をよくつき、彼らのお国柄なんじゃないかと思ってしまうくらいです。私の幼馴染など息をするように嘘をつき彼の事を他の友人が「普通は嘘八百と言うがあいつは嘘千や」と言われていたくらいでほんとの事はほんの少し、残りはほとんどが嘘、過去の不手際をいつまでも言いふらす、自分の事になると口癖で「ぐちぐち言うな!」とすぐ激怒、恨みは「半万年(5000年)忘れんぞ!」と根に持つ、親しくしている人でもなんらかの失敗して落ち込んでいたら「俺は注意してやったんだ」としてもいないアドバイスを彼のこと思ってしたかのセリフ・・・。 そんな彼なので大病したときも誰も見舞に行かず結婚式の時など誰も招待受けても行かなかったんです。それでは気の毒と言うかかわいそうですし、幼いころから知っているので私だけでもと参加したんです。そして友人のテーブルについたら見たことない方々、なんでも「派遣」の方らしく、結婚式までどこまでが本物か分からなかったことがありました。嘘についてかつて生野区に住む友人から「元々私達は通名で名乗ったことからが嘘の始まりでそう(通名でないと)生きて行けなかった背景も分かってくれ」と言われたことがありました。ある意味戦争が生んだ悲劇なのかもしれません。もちろん併合は戦前に行われたのですがそうせざろう得なかった当時の事情(列強が占領すれば日本の目と鼻の先に脅威が立ちはだかる)も考慮する必要があったと思います

多くの犠牲の上に私たちの平和が今日あることを忘れてはいけないですしその犠牲、悲劇はなぜに起こってしまったのかも論じても良いと思います。また戦争の悲劇や悲惨さを伝えることの重要性はもっともですし伝えねばならないですが現代社会で今後あの悲劇は今後どのようにすれば防げるかを考えるのも重要だと思います。国際外交、70年以上前とは何もかもの価値観も変わっているのでそのかじ取り、過去にとらわれ過ぎるのもそのデータをもとに交渉するのもどないな(如何な)ものかと思います。過去は日本が攻めたかもしれないが現代は日本が攻められるかもしれないので「守る」と言うことも大切と思います。しかしながらそう書くと「守る」イコール軍国主義復活と短絡的に烙印押される方もおられるが刃物持ってうろうろする人見たらまずは家の鍵かけるでしょ。それを「刃物持っているからと言ってその人物が何するわけでもないんでしょ」と言うのがいるから困りものです。

浅はかな私の妄想ですが、沖縄にもう基地を作らずその分「いずも」「かが」にF35を搭載できるようにし後2隻建造し沖縄の港に停泊させたりすると少しは米軍の基地問題も軽減できるのではないかと思います。「かが」ならば全長248m、F35なら設計変更により15機は搭載できると思います。もちろん60機搭載できる某国のから見るとこまかくも感じますがあるのとないのでは大きな違いと思います。カタパルト方式ではないため健造費用も正規空母ほどはかからないと思います。空想映画「空母いぶき」が来年公開されるのでごらんになられてはいかがかと思います。実はこの手の話はうちの近所ではだれにもできないと思っていましたところなんと親戚の「ひろっちゃん」がぐいぐい話について来てくれたので驚いています。おかげさんで昨年農業関係で互いに正副組合長した時麦刈りの時など小島艦隊、堤艦隊なんて言って二人でその進捗状況を確認し合っていました。えらく話がそれましたがいつもこの時期になるとこうした戦争についての過去、現在、そして将来を考えたりする寛珍です 

Filed under: 美湖母湖モノローグ — admin 0:10:23  コメント (0)

寺参りPART2盂蘭盆会

昨日はお寺参りなどがありました。先日の11日にもありましたが忘れていてまっいいかと言うことにしました。今日は盂蘭盆会と言いましてお盆のお参りがありました。お寺のみならず神社への参拝もあり何かとお参りデーでした。今日もDND(大日如来)さんがあるのでこちら(躰光寺)では参り通しです

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まず神社。冬場だったら「あ~寒い」と言って火にあたるところこんな猛暑、みんな火から遠ざかっていました。んで連中(お宮さんの世話する同世代の集まり)の「おけさん」と共に参拝し向かうは弘誓寺

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まずは庫裡にて。向こうには三役さんがおられたりします。

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各役員さん方への中元の挨拶などしつつお寺の次期「坊守さん」へのご挨拶もさせて頂きました。私は彼女の事を「法曹界の二階堂ふみ 」と思っています。とても魅力ある方です。んじゃせごどんは・・・

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・・・・・。

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お勤めが始まるまでのひと時。うちの実家のお寺「上品(じょうぼん)寺」と違いとにかくでかくてお寺そのものの「格」が上過ぎて誠に恐れ多い事です。しまいにこのお寺、観光名所にでもならへんやろかと思うときもあります。同名のお寺が五個荘にもありますが、9月にはアート作品を展示されたりしつつ親鸞さんや阿弥陀さんとのふれあいをしてもらおうとされています。

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みなさんが集まり10時からのお勤めに備えておられます

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住職のご挨拶と法話をいただきました。

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続いて行われたのが総会。色々とお話や提案などされました。私はあまり宗教や家の事に熱心でなく、結婚してからこの家の墓参りは3~4回(惣七さんとキヨさんが他界し一周忌だった(?)年、結婚した時にうちの墓がここだと案内してもらった時くらい)ほどしかお参りしたことないですし、お寺参りもお勤めの時など顔は神妙な顔しているが心の中では

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はやくこの「くだり」がこないか待ち遠しいです。でもうちのお寺は現代的でさっさと済ませてもらえるので好きです。実家の親戚の長浜は八条町にあるお寺など「お東さん」なのでとにかくお経もお勤めも長い長い・・・まるで嫌がらせかと思うくらいです。また、実家のお寺「上品寺」の前の住職は顔はかつての政治家「後藤田正晴」さん風でご法話頂くときは喋りがかつての大俳優「大河内傳次郎」さん風で、単刀直入にいえば何を言っておられるのか分からない住職でした。「あいや~あ~うん・・・開祖・・・あ~・・・うん・・・」ほんとにこんな感じでいつも親戚一同訳分からずうなずいていました。われらの住職は聞き取りやすくお言葉に有難さをも感じるお話をされます。お声など河内音頭などされてもと思うくらいの張りのあるお声です。

Filed under: 美湖母湖モノローグ — admin 1:16:50  コメント (0)

帰省

家内と子供の4人で彦根の実家に行きました

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昔だったら母親が何かしらの料理作って待ってくれていたりしました。お昼、とりあえず寺回転寿司にでも行こうということになり

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父親との5人で向かいました。その後ちょいこの店の周りうろついてみました

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こうした店が少なくなったのも寂しい限りです

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その食堂の前にあるのは旧道路公団職員さんの住宅。家賃安く広い住まいで当時食材をここに納品させて唄抱いていましたがほんと充実した住まいには羨ましさも感じていました

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彦根の地場産業ともいうべきバルブの工場。私は彦根東中学出身で、小学校は城東小学校出身なのですがこの地域は東中でも佐和山小学校エリアです。このふたつの小学校エリアではバルブ製造が盛んで、私の実家の近所でも数多くの町工場がありました

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その工場の裏道、こうした道があちらこちらにありいつもどこからともなく金属の加工する音やにおいなどがしていました。

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こうした道も当時はもっと狭く自転車が行き来するのが精一杯でした。ここらは今風の家が建っていますが当時は長屋っぽいのがありました。商店もそうですが当時は自宅の一部が工場(工房)で生活と仕事が一体でした。友人の家に遊びに行ったときの事です、お昼時は避けようと昼から遊びに行った時友人たちのご家族は遅めの昼食中でして「食べて行きなさい」とそうめんをごちそうになったことがあります。家族も近所も一緒にわ~わ~やっていた古き良き時代でした

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町にはこのような商店がありジュースなどよく買いに行きました

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いろんな店がありましたが今はこの付近、お米屋さんがあるくらいになりました。道路も広くなりずいぶんこの界隈も変わりました。東中は商売やこうした工場営む方多く、西中はサラリーマンの方多く、南中や稲枝中は農家が多かったです。鳥居本中はお寺などに熱心な方が多く中学校でもカラーがあったように思います。たいがい私のブログはそうした「懐かし」シリーズが多いですがそうだからと言ってその時代に時計を巻き戻したら不便極まりなくちょい嫌だなあ~と思うんじゃないかな?

Filed under: 美湖母湖モノローグ — admin 8:33:29  コメント (0)